2019年1月16日水曜日

Let's start with calamari

昨年(2018年)4月に恩師である新井賢一先生が亡くなられました。追悼文集の一部です。


Let’s start with calamari
             熊本大学生医学研究所 教授 西中村 隆一
       Ryuichi Nishinakamura, Kumamoto University, Japan                 

 初めて大医科研の新井賢一先生をねたのは1990年末でした。真冬にもわらず半袖短パンの人物が今日は暑いですなと言いながられて時間しゃべりそれが終わる頃には私は新井研に入ることになっていました
 新井先生との接点がえたのは医科研にいるときよりもむしろ1993年から2年DNAX研究所に留学させてもらったでした新井先生はDNAXに来るたびに我々若手をSundanceといステキレストランにれ出し散々ご走してくれました最初は必ず ”Let’s start with calamari.”  イカリングのフライです。それからShrimp cocktailなど色々頼んで結構お腹が膨れてきたところでPrime rib steak。私が普通サイズを注文していると横から一番大きいやつにしてくれ手にえてしまい若いんだからこれくらい食べんといかんサイエンスのはほとんどした記憶がなく、楽しい日々でした
  国して、東大医科研のAMGEN寄付座(新井先生が設立に尽力)に加入サイトカインかられての研究を始めましたノックアトマウスで腎臓発生を解き明かしてそれをもとにを作ってみたいとえるとそれは面白い、ノックアウトではなくて作るというのがよい。是非やれと励ましてもらいました。しかし、カエルとマウスを使って生に関わる遺伝子を3年間必死に探したものの全くまくいかないあきらめてサイトカイン研究にかと思って相談するとおまえは生をやるんじゃなかったのか他人の芝生が青いからといってそっちにひょろひょろいくのかと叱られました他人のフェロモンに引き寄せられてよそへ行ってしまのではなくてここできちんとデタを出して自分のフェロモンを出して他人を自分のところに引き寄せられるよになれお前はそなれるはずだこの最後のお前はそなれるはずだというところが新井先生の人たらしなところでそんな茶なと思いながらまた踏んってしまんですよねその甲斐あって新しい遺伝子がとれてのないマスができその知をもとに組織ヒトiPS胞から作ることができるようになってきました。ここまで20年以上かかりましたが、少し頑張ればを丸ごと作れそがしています。今の自分があるのはあの時の新井先生の一喝のおかげです。先生にはとてもかないませんが自分も少しはフェロモンを出せているでしょ一度あの頃に戻ってcalamariprime rib steakを一緒に食べながらそういう話をしてみたいです。Let’s start with calamari.

宮島先生の背中

昨年(2018年)3月に定年で東大を退任された宮島篤先生への感謝文集の一部です。宮島先生は現在も東大の社会連携講座で研究を継続されています。


宮島先生の背中     
              熊本大学 発生医学研究所 西中村 隆一

 1993-1995年の2年間、DNAX研究所に留学した。当時私は東大医科研の新井賢一先生の大学院生だったが、ノックアウトマウス作成がうまくいっておらず、DNAX研究所に派遣されることになったのである。私がノックアウトの標的としたのは宮島篤先生が単離されたIL3/GM-CSF/IL5の受容体bc bIL3だったので、主にはRich Murray博士の研究室に所属してノックアウトの技術を習得しつつ、宮島先生のラボミーティングにも参加した。一方実験ベンチは新井直子先生のラボの中にいただいたので、3人のPIにお世話になりつつ、誰からも直接の管理を受けないというかなり自由気ままな立ち位置であった。それまで2年以上うまく行っておらず悲壮な覚悟での渡米だったが、Palo Altoはいつも晴天で、実験の待ち時間には近くの丘に登り、憧れのカリフォルニアを満喫した。実験が本格化するまでの1ヶ月間は図書室で小説を読んだりもしていたが、それを見かけた宮島さんから怒られることもなかった。
 当時の宮島研はDNAXLittle Tokyoとも呼んでもよいほど日本人を含む東洋人の比率が多く、不夜城であった。午前1時に帰宅するのは早い方で、3-4時はざらであった。私も午前 3-4時に帰宅して、翌朝9-10時に再開するサイクルで過ごした。宮島さんは夜遅くにラボを回って各メンバーに「どうすか?」と進捗を聞いていたが、翌朝にも回ってきて「どうすか?」と聞く。しかし、さすがにその間は睡眠に充てるしかなく、どうすかと聞かれても困るよねと岩本隆司さんがこぼしていた。私は直轄メンバーではないのでそういうことがなく彼に羨ましがられた。実際、実験の進捗はラボミーティング以外で聞かれたことはなく、急かされた記憶もない。本当に自由にやらせていただいた。高価な試薬も、理由も聞かずに承認のサインがもらえたし、DNAX研究所の宮島研はパラダイスであった。
 ラボを回っている時以外は、宮島さんは大抵自分の居室にいたが、廊下に面したドアにはガラス窓がついていて、中が見えた。宮島さんはいつも机に向かって何か書いていて、その背中が強く記憶に残っている。ほんとに勤勉に机に向かっていて、廊下を通るたびにいつも背中だけが見える。お気楽な大学院生であった私は、その背中をみる度にラボを運営するのはなんだかとても大変そうだと感じたものである。思えばあの頃の宮島さんはまだ40才台になったばかり、今の私より10年以上若い。研究構想を練ったり、次から次へと上がってくる論文の手直しをしたりしていたのであろうか。実際、私の初めての論文は当初Rich Murrayと書き進めていたが、一応形ができたところで宮島さんに見せたら直ちに大幅な修正意見をくらい、Richと板挟みになって困惑したことがある。最終的には宮島案が通り、その御蔭ですんなりとImmunityに採択された。私が研究者を志す大きなきっかけになった論文であり、あの日々がなければ今の私は存在しない。原孝彦さんが鋭い質問を繰り出し、若尾宏さんやAlice MuiSTAT5をクローニングし、北村俊雄さんがretrovirus vectorを立ち上げ、木下大成と一緒にボロ車で毎晩夕食に繰り出す、刺激的で懐かしいあの日々からもう20年以上が経ったとは信じられない。帰国後、私は腎臓発生を始めたが、宮島さんが血液から肝臓発生に転じたこともあって、長く交流が続いている。でも宮島さんといわれると一番に、あの背中が鮮やかに蘇ってくる。私の原点は間違いなくあの背中にある。